二宮敦人
1985年東京都生まれ。作家。 『最後の医者は桜を見上げて君を想う』『最後の秘境 東京藝大: 天才たちのカオスな日常』等、幅広いジャンルでベストセラーを発表。著書に『!』『世にも美しき数学者たちの日常』『紳士と淑女のコロシアム「競技ダンス」へようこそ』『ある殺人鬼の独白』『さよなら、転生物語』『ぼくらは人間修行中 はんぶん人間、はんぶんおさる。』等がある。
臭気判定士
亀山 直人(かめやま なおと)
株式会社環境管理センター におい・かおりLab
「嫌なにおいは、好きですねえ」
朗らかに笑いながら、臭気判定士の亀山直人さんは言い切った。
「えっ……好き、なんですか? 嫌な臭いが?」
僕は思わず聞き返してしまう。
「好きですねえ。どうしてこんなにおいがするんだろう、どんな成分が含まれてるのかなって思ってね、興味深く嗅いじゃいますね」
頷く亀山さんの頭は白髪交じりだが、表情は若々しく肌つやも良い。時折銀縁眼鏡を煌めかせながら、楽しそうな様子で質問に答えてくれる。
「生ゴミとか、人の体臭とかも」
「ええ、嫌だとは思わないですね。この仕事を始めてからはむしろ、一般的にはいいにおい、とされている方が気になるようになりました。たとえば入浴剤なんか、下水のにおいに感じちゃうんですよ。下水の湯船に浸かっているような気分……。生下水って嗅いだことありますか? 硫化物のにおい、つまり卵が腐ったようなにおいに混じって、なんとも言えない甘いにおいがしてね。これがいわゆる香料由来だってわかったのは最近なんですが。入浴剤も、シャンプーも、石鹸も、下水臭を連想します」
そんなことがありえるのだろうか? 嫌な臭いは嫌な臭い、いい匂いはいい匂いではなかろうか。しかし亀山さんの頭の中では「臭い」も「匂い」も「におい」であり、どちらも好きなものだそう。
半信半疑ながら「嗅覚」についての取材は始まった。
株式会社環境管理センターの「におい・かおりLab」は東京都日野駅から歩いて20分ほどのところにある。見たところ郊外の閑静な住宅街に建つごく普通のオフィスビルだが、全国に二つしかない第一種臭気測定認定事業所の一つ。「においのプロ」として、様々な相談事を請け負っているという。
「変な匂いがするから、原因を調べてくれ、とかですか?」
「ええ、そういうこともあります。他には建材のにおいが好ましいかどうかテストしたいとか、新しい消臭剤の性能を確かめて欲しいとか、新車についているにおいをどうやって消したらいいかとか。何でも、いろいろですね」
白衣をまとった亀山さんに導かれて、さっそく建物の中へ。
「おお……理科室って感じ」
チューブで繋がったガラス瓶やフラスコ、メーターがついた謎の四角い箱、そして大きめの電子レンジほどの装置がたくさん並んでいる。
「ここで匂いを分析するんですか?」
「そうです。たとえばこれ、ガスクロですね。組成分析に使います」
ガスクロマトグラフ。空気の中に何がどれくらい入っているのか調べるための装置だそう。
「こっちから混合空気、つまりいろいろな物質が混ざった状態の空気を入れるんです。そうしてこの、カラムという道を進ませる」
「何か、細いチューブがぐるぐる巻きになってますが」
「物質によってこの中を進むスピードが違うんですよ。たとえるなら、犬と人間が混ざった群れがいるとするじゃないですか。それをヨーイドン、で細い管の中を走らせて、少し待つ。人間は思うように移動できず、普段は飼い主に寄り添って一緒に移動する犬は、しびれを切らせて犬同士先に行ってしまう。だから前の方には犬が固まって、後ろの方には人間が固まるわけです。こうして元の群れにそれぞれ犬がどれくらい、人間がどれくらいいたのか調べられる。大雑把にいうとそういう仕組みで、混合空気の中身を分離するわけです」
「なるほど! どんな物質が原因で匂いがしているのか、はっきりさせるんですね」
「ええ。実際にはもっと凄い装置を使って、微量成分を検出し、成分情報を得て、正体を突き止めていくんです。が……」
亀山さんは苦笑した。
「なかなか簡単にはいかなくてね。うまく分けられなかったり。あるいは何かがあるというのはわかっても、正体が特定できなかったり。嗅げば確かににおいはするんだけど、これ一体何なんだろう、と」
「そういうときはどうするんですか」
「うーん、サンプルの濃縮方法を変えたり、分析条件を変えたり、カラムを別のものに変えてみたり……そうやってわかることが、なきにしもあらず……といえなくもない……こともない……あはは。結局諦めて『不明物質』扱いにすることも正直、ありますね。少なくとも原因物質だけは何とか突き止めようと、頑張ってはいますけど」
「難しいんですね」
「結局ね、人間の鼻というのはかなり性能のいいセンサーなんですよ。鼻では感じるけど装置じゃ全然わからないってのは、よくあります」
へえ、と呟く。ふと机の上の、水銀温度計に似たガラスの棒が目に留まった。
「それは検知管です。使い捨てでね、中に空気を吸わせるんですよ。たとえばアンモニアの検知管なら、アンモニアが一定以上あれば色が変わって、変色した部分の長さで濃度がわかるんです」
「おお、それは便利ですね!」
それがねえ、と亀山さんは鼻の前で手をあおぐようにしてみせた。
「検知管で検知するくらいあったらね、すでに臭くてたまらないですよ。アンモニアの刺激臭がぷんぷんするはずです。だからにおいの成分がわかっている高濃度のところでね、どれくらいの濃度か調べるような用途で使うかな……こっちはセンサー。仕組みとしては金属酸化物の触媒で、有機物を反応させてそれを検知……まあ、いわゆるガスセンサーです」
黒いアタッシェケースを開くと、中からトランシーバーに似た装置が出てきた。
「これもねえ、においの強さと相関のある数値が出てくる優れモノなんですけど。アルコールなんかには妙に敏感ですが、低級脂肪酸なんかは結構におっていても数値にならなかったりして、用途が限られます。あ、低級脂肪酸っていうのはね、いわゆる蒸れた靴下とか、汗くささだとか、そういったにおいの原因になるものです」
「不思議ですね、どうしてそんなことが起きるんですか?」
「鼻とは原理が違うからです。人間の鼻は、物質によってにおいを感じる濃度が異なるんですよ。アルコールは高濃度でないと感じにくいのに、低級脂肪酸は極低濃度でも感じる、というようにね」
「何だかお話を聞いていると、どの道具も完全には頼れない感じですが」
「うーん、だから使い方しだいです。センサーも、発生源の管理なんかにはとても便利ですから。何せ嗅覚というのは数多(あまた)ある化学物質を検知できる非常に複雑な器官で、五感の中でも最も解明が遅れているといわれていまして。関連している遺伝子が発見されたのが、ようやく1991年と、かなり最近ですから。まだテクノロジーが追いついてないんですね」
亀山さんはセンサーをしまいながら、軽く自分の鼻に触れた。
「だから人間の鼻で確かめるのが、確実なんです」
亀山さんが持っている臭気判定士という資格は、れっきとした国家資格である。テストを経て、国からじきじきに認定された臭いのプロフェッショナルというわけだ。さぞかし常人離れした鼻を持っているのだろう――と思いきや、それはちょっと違うようだ。
「臭気判定士というとね、ごく微かなにおいも嗅いで判別する人、なんて誤解されている方もいるんですが。実際には鼻を使った品質検査、これを官能試験といいますが、そのオペレーターの資格なのですよ」
「ええと、オペレーターというと」
「つまり、正しい官能試験のやり方を知っていて、実際に取り仕切ることができる人、ということです」
なんと、試験監督の資格だったのか。
「これが官能試験に使う部屋ですね」
案内されたのは、机と椅子がいくつか並んだ、どこか学校の教室を思わせる部屋だった。実験道具があった部屋に比べるとがらんとしていて、ものが少ない。壁にスケジュール表らしきものが掛かっていて、隅に加湿器と空気清浄機が置かれている程度である。ここで年に1000件くらい官能試験をしているそうだ。
「快適な空間でないとならないんですよ。だからほら、窓もあり、それなりの広さを用意して、圧迫感がないようにしています。温度と湿度も一定の範囲内になるように管理しています」
「けっこう、デリケートなものなんですね」
「においって、精神状態にかなり影響を受けるんですよ」
官能試験にはいくつかの種類があるが、そのうちの一つ、三点比較式臭袋法(においぶくろほう)について詳しく教えてもらった。
「臭気指数を調べる方法なんです」
「どれだけ臭うのか、ということですか?」
「そうそう。たとえばどこかの排水溝から変なにおいが漂ってくるとしますよね。そうしたらまず、こいつを持って現場に行く」
奥の倉庫から、亀山さんが円筒状の容器を引っ張り出してきた。ゴルフバックほどの大きさがあり、肩に背負うための紐がついている。
「中に袋を入れてね、この容器をポンプで減圧して袋を膨らませて、におう空気を集めてくるんです」
「ポンプは手動ですか?」
「電動のもの、手動のもの、どちらもあります。これなんかは電動の、直接袋に繋ぐポンプです」
棚から懐中電灯に似た道具を取り、スイッチを入れると、ぶーんと音を立てて唸りだした。
「モーターでファンを回してるんです。その力で空気を集める。ただ、私はあんまり好きじゃないかな」
「どうしてお嫌いなんです?」
「容器を減圧して袋を膨らませる方は、集めたい空気を直接袋に入れられます。ですがこちらは構造上、採取したい空気と、袋との間にファンが挟まっていますよね。たとえば1台で複数箇所の空気を採取すると、前のにおいがファンに残っている可能性があります。きちんとファンを取り替えながら採取するよう、使う人が気をつけなきゃならない。それから装置に負荷がかかるとモーターのにおいが出て、それが空気についちゃうこともある。いずれにせよ、正しく検査できなくなってしまいます」
僕は鼻を近づけて、クンクンと嗅いでみた。
「ね、ちょっとにおうでしょ。モーターから」
「うーん、どうでしょう……?」
正直、よくわからない。
「私は気になるんですけどね、平気って人も多いですね。さてにおいを集めてきたら、いよいよ臭い袋の出番です」
密閉されたビニール袋を、三つ用意する。一つにだけ、注射器を使って臭いを注入する。残り二つは空気だけを入れておく。
「審査員、パネルといいますが、パネルの皆さんにはこの三つを嗅いでもらって、どれがにおうか当ててもらうんです。当てられたら、においを薄めてもう一度三つ用意して、また当ててもらう。これを繰り返していくと、そのうち誰も当てられなくなります。それまでにどれだけにおいを薄める必要があったか。この希釈倍数から臭気指数を計算するわけです」
「試験自体は、簡単そうに思えますね」
「そう、やることはシンプルです。気軽にね、パッパと嗅いでもらったらいいんですけど。緊張していたり、時間をかけすぎたりするとこれがうまく行かないんですよ。外観でにおいを入れた袋を当てちゃうパネルがいて数値が高く出すぎたりね、その逆に気が散ったり緊張してにおいがわからなくなって低く出すぎたり。パネルが慣れてサッサとやってくれるようになるまでは、臭気判定士との間で心理戦が展開されます」
「臭いって、そんなに個人差が出るものですか」
「人によっても違うし、その時の気分や体調によっても違う。先入観も禁物です。たとえば『これ、焼き魚のにおいだよ』と伝えてから嗅ぐと、それまでにおわなかったのに急ににおうようになったりする。意識することで、においにたどり着きやすくなるんですね」
「じゃあ、試験をしてもなかなか安定した結果が出ない……?」
「今ご説明しました、臭気指数のような空気希釈法は、安定した値が出やすいです。が、直接原臭、つまり元のにおいを嗅いで貰って、それがどれくらい強いか採点して貰うような試験もあるんですね。これは十数人くらいのパネルを用意して、適切に試験を行って、ようやく安定した数値が出てくる印象ですねえ」
ううむ、装置ではなかなか難しいから人間の鼻を使うということだったが、それでもしっかり結果を出すには工夫がいるというのか。
「嗅覚って……ずいぶん曖昧なものなんですね?」
ははは、と亀山さんは笑った。
「わからないことは多いですよ」
1985年東京都生まれ。作家。 『最後の医者は桜を見上げて君を想う』『最後の秘境 東京藝大: 天才たちのカオスな日常』等、幅広いジャンルでベストセラーを発表。著書に『!』『世にも美しき数学者たちの日常』『紳士と淑女のコロシアム「競技ダンス」へようこそ』『ある殺人鬼の独白』『さよなら、転生物語』『ぼくらは人間修行中 はんぶん人間、はんぶんおさる。』等がある。