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感じる人びと 第1回 鼻で「感じる」 好況も不況もにおいで見てきたひと

二宮敦人

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Illustration もとき理川

臭気判定士
亀山 直人(かめやま なおと)

株式会社環境管理センター におい・かおりLab

目に見えそうな悪臭現場

 どうして亀山さんは、この仕事を続けているのだろうか。

「私は北海道出身でしてね、周りに自然がとても多かったんです。すると自然が破壊されるのも目立つんですよ。遊んでいた山に廃棄物が埋められるようになったりとか。当時はゴミ処理もいい加減だったからね。自然を守りたいと思って、大学は環境工学科に入りました」

 そうして環境調査などを請け負うこの会社に入った。

「臭気って、何だか面白そうだなあと思っていたら、そっちの担当に抜擢されちゃった。いろんな現場に行って、大学で学んだ排ガスや廃水の処理技術を実際に見られたりして、面白かったですよ。今はにおいの試料の採取と分析はそれぞれ別の人がやることが多いけど、当時は全部一人でやらせてもらえてね、恵まれていました」

 遠い目で語る亀山さん。

「当時の悪臭規制はですね、他の環境汚染物質と同じように、物質の種類と濃度によってのみ行われていたんです。ですが悪臭苦情は増える一方で、規制物質を増やしてもちっとも追いつかない。分析する技術も追いつかない。このままではだめだ、ということで当時の環境庁が中心となって、人の鼻で判断する官能評価による規制を検討し始めたんです。こうして臭気官能試験オペレーターという民間資格制度が作られて、私は1988年、第1回臭気官能試験オペレーター養成コースを修了しました。それが臭気判定士という資格の前身です」

「当時のお仕事はどんな感じでしたか」

「面白い現場がたくさんありましたよ。埋め立て処分場でね、今は産業廃棄物扱いなんだけど、昔は建材の石膏ボードも安定品目という分類で、要するにそのまんま埋められてた。こいつに含まれる硫酸カルシウムが硫化水素ガスになって出てくるんです。硫化水素って『卵の腐ったようなにおい』とか表現されますが、不思議なことにあまりにも濃いと逆に感じられなくなるんですよ。サンプルを採りに行って、現場で採取したガスを直接嗅いでも『あれ? 思ったほどにおわない』って感じて採取し直したり。せいぜい硫黄酸化物みたいな、ちょっと鼻や喉がチクチクする程度のにおいでね」

 僕はのけぞりそうになる。

「ちょっと待ってください。硫化水素って確か毒ガスですよね?」

「そうそう、毒ガス毒ガス。だからたくさん吸ってたら危なかった。死亡事故が起きる時って、こんな感じで気づかないのかなあとか思いましたよ、あはは」

 呑気に笑っている。それでいいのだろうか。

「当時はいろいろ、ラフでしたからね。役所の立ち入り調査で行った、フェザーミールの工場も忘れられません。あれは私の経験上、最悪のにおいでした。鶏の羽毛を飼料や肥料に加工しているんです。クッカーという、圧力釜のようなものに放り込んで、油脂を搾り取って残りを砕いて。これがもう……目に見えるんじゃないかというくらい臭い!」

 鼻を摘まんでみせながら、やはり笑っている。

「アンモニアが出てる。硫化水素も。ボイラーから焦げたにおいも出ていて……もう、ぐっちゃぐちゃ。特定悪臭物質の規制基準って実際に超えることはまずないんですよ、でもそこは超えてました。とにかく独特の鶏のにおいがすっごく濃くて、あれは倒れる人もいるでしょうね。私は平気でしたけど。体に染みついちゃって、帰りは電車なんかとても乗れませんよ。寂しいですがあの工場はもうなくなりましたね」

「凄い時代ですね」

「国や自治体の努力もあって、あの頃から悪臭苦情はだんだん減っていったようです。ただ、ぼーんと増えた時があったかな。ダイオキシンの問題とか、地下鉄サリン事件なんかが同時期に起きてね。それから『異臭』という言葉が急に増えて。今はまた徐々に減ってきたところです。最近は工場よりも住宅、ご近所トラブルのような悪臭問題が出てきました」

「何だか世相が見える、いや世相が嗅げますね」

「日本の産業が衰えてきた、というのもあるんです。こないだ通りかかった工場、以前は凄く臭かったのに全然におわなくなっていたんですね。必死になってにおいを採取して脱臭装置も提案した甲斐があったなあ、なんて思っていたら、もう稼働していないんですって。海外に移管しちゃった。少し寂しくなりましたよ」

「分煙や禁煙もずいぶん進みました」

「自動車排ガスのにおいもかなり減りましたね。不思議なんですよね、昔は喫茶店でスパスパ吸われても、沿道で排気ガスを吹きかけられてもあんまり気にならなかったのに。今はにおいが漂ってくると、気になっちゃいますから」

「臭いの未来はどうなるんでしょうか?」

 冗談交じりに、亀山さんは語ってくれた。

「そうねえ、もっと厳しくなってるかも。人前でご飯食べると、悪臭扱いされたりして」

毎日が探偵事務所

 それにしても亀山さんは楽しそうに話す。理由を聞いてみると、こんな答えが返ってきた。

「この仕事、とにかく面白いんですよ。においは複雑な化学工場から、身近なラーメン屋まで、ありとあらゆるところにある。いろいろな知識が要求される。毎日新しい発見があるといったら、いいすぎかな? とにかく興味を惹かれてやまないわけです」

 それは仕事場を覗いていても伝わってくる。ある部屋には、四角くて透明なテントのようなものが、どーんと鎮座していた。

「これは一体、何ですか」

「ああ、それは試験空間ですよ。ポリエステルフィルムとステンレスの支柱とテープでね、自分たちで密閉空間を作ったんです。最大6立方メートルまで作れます。この中で焼き肉を焼いて、空気清浄機を動かしてにおいの減り具合を調べたり。そんなことをして遊んでいるわけです」

「こっちの装置は……?」

 机に、剥き出しの扇風機のようなものが置かれている。

「あ、それは凄いですよ。試験空間の中で空気が均一になるようにこう、かき混ぜたいと思っていたんです。でも市販のファンではどうしてもにおいが少し出てしまう。においが出ないファンが作れないか? と。そうしたらこんなのを考えた職人がウチにいて」

 亀山さんはその扇風機を手に取った。するとプロペラの部分だけカパッと外れる。

「あれ? 壊れてませんか」

「いえ、これでいいんです。こうしてプロペラだけを中に入れますよね。そしてフィルムの外側からこっちの装置をくっつける。そうしてスイッチを入れると」

「あ! プロペラが回った。そうか、磁石になってるんですね」

「そうそう、駆動部を外に置いて磁力で回せばにおいが入らないわけです。良く作ったと思いますよ、あり合わせのものでね」

 よく見れば装置の支柱は太い注射器を切り取ったもの、枠は金属の筒を組み合わせてハンダ付けされたもので、いかにも手作りである。

「ここでしか使い道がない装置ですね」

「特注品は他にもありますよ。これ、何だと思いますか」

 注射器が据え付けられた細長い装置だ。注射器の先端はチューブに繋がっている。動かすと、装置が自動で注射器のピストンを引っ張ったり、押したりしそうだが。

「業者にお願いしてね、作ってもらったんです。これ、電子タバコをパフ、つまり吸って吐かせる装置なんです。電子タバコの香料を試験するときに、ヒトに吸わせずに煙だけ出したくてね、知恵を絞りました」

 なるほど、確かにこの仕事は面白いかもしれない。

 案件ごとに、どうやってにおいを手に入れるのか、どうやって調べるのか、どうやって検査するのか考えなくてはならない。ひっきりなしに興味深い事件がやってくる探偵事務所のようである。

 そうした難事件の一つ一つで使われたのだろう、手作りの装置がたくさん並んでいる。中には「考之くん」と名前までつけられているものまであった。

「いろんなことがありますよ。新しい空気清浄機を作った、劇的にゴミ捨て場の臭いがなくなってとても評判がいいんだ、性能をテストして欲しいと……持ってきてもらった装置を開けるとプラスチックの板が数枚入っているだけとかね。これでにおいが落とせるわけがない。でも本人は効いてると信じてる、どうしたものかと。だいたいは丁重にお断りしますけど」

「そうか、精神状態が影響するんですものね。効くと信じれば、効いちゃうこともあるのか。事実を教えるべきかどうか悩ましいなあ」

 においのプロの守備範囲は広い。科学はもちろん、食文化や時代の変化、そして人の心の中まで踏み込んでいく。知的好奇心が旺盛な人には、うってつけの職場である。そうして楽しんで嗅いでいれば、嫌な臭いもいい匂いも、「好きなにおい」になるのだろう。

(第1回 おわり)

                             

二宮敦人(にのみや あつと)

1985年東京都生まれ。作家。 『最後の医者は桜を見上げて君を想う』『最後の秘境 東京藝大: 天才たちのカオスな日常』等、幅広いジャンルでベストセラーを発表。著書に『!』『世にも美しき数学者たちの日常』『紳士と淑女のコロシアム「競技ダンス」へようこそ』『ある殺人鬼の独白』『さよなら、転生物語』『ぼくらは人間修行中 はんぶん人間、はんぶんおさる。』等がある。

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