menu

Novels

Novels 一覧へ

Essays and more

Essays and more 一覧へ

「ことば」と「音」で遊ぼう! <小学生と学ぶ超言語学入門> 特別対談 橋爪大三郎 × 川原繁人 <校長先生への授業報告>

川原繁人

シリーズ一覧へ
Illustration ryuku

特別対談
橋爪大三郎(はしづめ だいさぶろう)

1948年生まれ。社会学者。大学院大学至善館教授。東京工業大学名誉教授。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。 『はじめての構造主義』(講談社現代新書)、『だれが決めたの?社会の不思議』(朝日出版社)、『権力』(岩波書店)、新書大賞2012を受賞した『ふしぎなキリスト教』(社会学者・大澤真幸氏との共著、講談社現代新書)等、著書多数。

文字と社会

橋爪 ちょっと話が飛ぶんだけれど、中国語と漢字の関係が面白いなと思うんです。

 漢字は、表音文字ではなくて、特別な文字ですね。

 表音文字は、音を表すものなので、文字を借りてくることができる。文字を借りたからと言って、もとの言語に影響が及ばない。言語といわば独立に、文字が存在する。

 漢字はそうなっていない。漢字は音ではなく、概念と対応しているんです。だから、字の数がとても多い。よく使う漢字でも、何千もある。

 さて、ここから先は、私の仮説です。

 表音文字は、言語が変化すると、表記もそれに連れて変わっていく。文字が言語の変化をとどめる力が弱い。漢字は、表音文字ではないので、文字が一度できたら簡単には変わらない。いま使っている漢字も2000年前にはもう出来ていて、あんまり変わっていない。概念はずっとそのままだということです。音は変わるかもしれないけれども、概念は変わらない。これは言語にとって、ものすごい束縛だろうと思います。

 だから、印欧語族の人びとと、中国語を使う人びとの歴史は、違っていて当然だと思うんです。

川原 ヨーロッパと中国の、二大文明の歴史の違いに、文字が決定的に関係しているということでしょうか。

橋爪 はい。では、日本については何が言えるでしょうか。日本語は、漢字を輸入して日本語に採り入れ、仮名もあるという二重状態です。蘭学もあって、西欧語の概念や発想を漢字の熟語に置き換えた。それでもはみ出す部分はカタカナにする。このやり方で、自分たちの思考や体験が開かれたり制約されたりしているはずです。その開かれ方や制約のされ方に、気が付かないとまずいと思います。

川原 まず、日本語が言語として重層的だというのはまさにそのとおりだと思います。基本に和語がありますよね。そして、中国語からの借用語である漢語がある。明治維新後には、取りきれなかったものをカタカナ語で取り入れることもした。それに加えてオノマトペもあるということで、日本語は、非常に柔軟であると思います。漢語で考えることもできれば、オノマトペ的に考えることもできる。

橋爪 では、中国語はどうでしょうか。私の仮説では、文字はふつう口頭言語を記述するものなのに、漢字は逆なんじゃないか。多民族状態で、複数の通約不可能な言語があったので、漢字ができた。だから、自分の言葉で漢字をどう読んでもいい。

川原 日本語でも訓読みとしてそれをやっていますものね。

橋爪 例えば、ヨーロッパの人が漢字を取り入れたとします。「我爱你」と書いて、英語はアイラブユーと読み、フランス語はジュテームと読む。文字も意味も一緒で、発音が違うのです。

 中国には「普通話」(プートンホワ)というものがあって、漢字で書くのだけれど、それを上海語で読んでも四川語で読んでも広東語で読んでもいい。音にしてしまうと、互いにほぼ理解不可能。でも、漢字は共通。文字が大事なので、音は二次的なのです。

川原 この意見は言語学者として非常に興味深いです。ソシュールの影響で、現代言語学では、文字を二次的なものと捉えるんです。ある人のことを知りたいときに、その人を見ずに写真をみる必要があるのか、という喩えが使われます。文字は写真のように、言語を写しとったものではあるが、言語の本質を捉えるものではない。文字の研究は、言語学ではない、という人もいるぐらいです。文字が言語の本質に影響を与えるなんていうことはあってはならない、という思い込みがあるように思います。

橋爪 それはヨーロッパの人びとの偏見ではないか。自分たちの文字がそうだからと言って、世界中そうだと思っているだけではないか。少なくとも中国の文字はそうではない。日本人はそれがわかっているはずなのだから、ちゃんと反論しないといけません。

川原 私が勤めている研究所の大先輩の鈴木孝夫先生が、声を大きくして全く同じことをおっしゃっていましたね。アルファベット言語は「ラジオ型」の言語で、音声中心かもしれないが、日本語は「テレビ型」の言語だと。漢字という視覚情報が非常に重要な役割を担っている。橋爪先生も『げんきな日本論』(講談社現代新書)で、昔の日本語は母音が8個あったのが5個に減ったのだけれども、平安時代に平仮名ができたことで、歴史的変化が安定した、という仮説を展開されていました。文字の使い方が音の使い方を決めることがあっていいのだという仮説は、言語学者として非常に新鮮でした。

 我々が言語を使うときに、文字の影響を受けていないということは決してない。例えば日本人が拍で音の数を数えますよね。これは確実に平仮名の影響があって、文字の影響なしに言語を語るというのは明らかにおかしいことです。私自身、言語理論にもっと文字情報の影響を取り入れるべきだという主張をしています。ですが、言語学には、文字の役割を受け入れることにどうしても抵抗があるようなのです。

橋爪 そういうおかしいところを正して、まっとうな言語学をぜひつくってください。

川原 頑張ります。こういう風に、橋爪先生の本を読むと自分の学問が相対化されるんです。自分のやっていることが広い目で見られると言いますか。

何のために学ぶのか

川原 最後にお話ししたいのは、何のために学ぶのか、です。

 多くの高校生は、大学で何が学べるかわからないまま、とりあえず受験という目標だけがあって、適当な学部を選んで大学に来る。いざ入ってみると、何をどう学べばよいのかわからない。この問題をどうしたらいいのか、悩んでいます。たぶん、日本中の大学の教員が同じように感じて、悩んでいるのだと思う。

 今回、小学校で教えてみたのも、そのためです。小学生のうちに、大学でやっている学問に触れてもらえると、大学に入る心構えが変わってくれるのではないか。そんな期待もあるんです。

橋爪 大学を出て何をするか、も大事ですね。

 私は前の勤務校で、「高校キャラバン」をやっていたんですね。高校に出張して、学問の魅力をアピールする。相棒の先生は大学の数学の魅力を伝え、私は地球温暖化の話をしました。地球も世の中も大変なことになっている。それに立ち向かうには、まず一人ひとりが何とかしようと思うことなんだけれど、武器が必要。それは数学かもしれないし、科学かもしれないし、政治や経済の知識かもしれない。ただ漫然と大学に行けばなんとかなる、じゃなくて、大学で何を身につけて何をしたいのか、その志を持たないで、うかうか大学に入っちゃだめだよ、と。

 あと、高校生の皆さんに私が言ったのは、試験のために勉強するのはやめましょう。点数であくせくするのは、勉強にも失礼だし、自分の頭にも失礼だ。自分の頭は貴いのだから、ほんとうに大事なこと、一生覚えていようと思うことを頭に入れるべきで、一夜漬けの勉強なんかやるだけ無駄です、ってね。

川原 私の娘が小学生なので、似たようなことを言っています。ちょうど昨日、「100 点目指して頑張る」と言うから、「そんなこと頑張らないほうがいい」と言いました。テストで100 点取ること自体に価値はない。100 点を目指していると、それが取れない時に落ち込むだけで、それは人生の無駄。答えがある問題だけを勉強の目標にしてしまうのは危険だ、と。

橋爪 それが伝われば素晴らしいですね。

川原 今日はたくさんお話ができました。言語学者として大事な宿題もいろいろもらえたと思います。ありがとうございました。

(2023年3月8日 オンラインにて)

川原繁人(かわはら しげと)

1980年生まれ。慶應義塾大学言語文化研究所教授。 カリフォルニア大学言語学科名誉卒業生。 2007年、マサチューセッツ大学にて博士号(言語学)を取得。 ジョージア大学助教授、ラトガース大学助教授を経て帰国。 専門は音声学・音韻論・一般言語学。 『フリースタイル言語学』(大和書房)、『音声学者、娘とことばの不思議に飛び込む』(朝日出版社)等、著書多数。

Novels 一覧へ Essays and more 一覧へ