星野智幸
1965年アメリカ・ロサンゼルス生まれ。1997年『最後の吐息』で文藝賞、2000年『目覚めよと人魚は歌う』で三島由紀夫賞、2003年『ファンタジスタ』で野間文芸新人賞、2011年『俺俺』で大江健三郎賞、2015年『夜は終わらない』で読売文学賞、2018年『焔』で谷崎潤一郎賞を受賞。2022年から、『ひとでなし』を新聞小説として連載中。
アメリカやイギリスでレコードがCDの売上を抜いたそうだ。音楽を聴く方法としてはサブスクリプションによる配信が圧倒的な主流となっている今、CDの売上が激減しているのはわかるけれど、逆にレコードの販売が世界中で伸びているのは意外に感じる。しかも、レコードで育った世代が懐かしくて聴いているというだけでなく、レコードを知らない若い世代がハマり始めているという。
現在レコードが流行る理由を私は知らないが、レコードを聞くことがさまざまな手間ひまを要することは知っている。針のメンテナンスも必要だし、レコード盤のホコリ対策も欠かせない。レコード店に行ってあれこれ物色し、事前情報のないアルバムの世界をジャケットから想像して、ときには試聴させてもらい、賭けに出るように購入し、うちに帰ってプレーヤーに載せ、針を落とす。あの一瞬のときめきの豊かなこと。
手間をかけて期待することの贅沢を、レコードはもたらしてくれる。そして期待が満たされた時間は、音楽が作り上げる別世界に完全に連れて行ってくれる。そのためにレコードは、お店の棚から存在をアピールしてくる。「ジャケ買い」という言葉はレコード全盛期に発生したものだ。
私にとって紙の本という存在は、レコードに相当する。特に単行本。ジャケットは装丁だ。
本屋を訪ね、自分に合った未知の本を探してさまよい、直感的に惹かれる装丁とタイトルの本を手に取る。適当にページをめくって拾い読みする。装丁に惹かれることと、ランダムに拾い読みすること、これが本屋で過ごすことの醍醐味であり、電子書籍ではほぼできない贅沢だ。
資料として読む本については、電子書籍で買うことが多い。収納の問題に悩まされなくてすむから。けれど、電子書籍は購入前にはランダムな拾い読みができないから、買ったあとで自分の目的には合わない本だったとわかると、だまされたような気がして腹が立つ。本屋で拾い読みして買って失敗しても、腹は立たないのに。このあたりが、電子書籍が紙の本を凌駕できない要因の一つなのかもしれない。
小学生高学年のころに本屋に入り浸るという楽しみを覚えてから、私はジャケ買いにのめり込んだ。特に、全集とか選集。最初は、ポプラ社から出ていた少年向けの江戸川乱歩シリーズだったと思う。全巻は買えないから、友だち何人かと手分けして買い、貸し合った。あのシリーズに夢中になった者には、活劇の一コマのような装丁を見るだけで血が騒ぐだろう。
私はそこから、あかね書房『少年少女世界SF文学全集』へと移った。こちらの装画も忘れがたい。乱歩シリーズともども、この時代の子ども向けシリーズは劇画調というのか、生真面目なリアリズムの絵画が多かった。
SFがきっかけとなって、私は海外文学に感化された。以降、現在に至るまで、私の読書のベースは外国の小説にある。今の私の本棚に多いのは、河出書房新社の世界文学全集、新潮社のクレスト・ブックス、白水社のエクス・リブリス、クオンの「新しい韓国の文学」シリーズ等々。いずれも、作品のラインナップの素晴らしさに加え、ジャケットが美しいことが価値となっている。所蔵する喜びは、モノとしての本の魅力と切り離せない。
中でも、人生で一番心を寄せたシリーズの一つが、国書刊行会の「文学の冒険」シリーズ。1990年代初頭、大学を出て就職したものの、やはり文学に戻ろうかと悩んでいたころに出会ってしまった。
手にとった瞬間、坂川栄治さんの手掛ける、プリミティブで大胆な迫力に満ちた装丁に吸い込まれた。禁断のお菓子の家の扉を開けてしまったかのようだった。
当時の私は、ラテンアメリカの小説に衝撃を受けている真っ最中だった。この衝撃で、仕事を捨ててでもラテンアメリカに行ってしまいたいという衝動にかられていた。「文学の冒険」に引き寄せられたのも、ラテンアメリカの新しい小説がてんこ盛りだったからだ。
ことさら偏愛したのが、キューバからの亡命作家レイナルド・アレナス『めくるめく世界』。200年前に迫害された実在の修道士が世界を股にかけて逃げ回る物語なのだが、内容も書き方もぶっ飛んでいた。同じ場面が過去形、現在形、未来形と異なった時制で書き並べられていたり、主人公の視点も一人称、二人称、三人称がめちゃくちゃに入り乱れたりする。修道士が牢に鎖でつながれても転げ回って鎖を引きちぎり、牢もぶち破り、鎖だらけの体で転げ回ってスペイン中を蹂躙し、海に落ちる場面など、あっけにとられた。小説ってここまで破天荒になっていいんだ!と目の覚めるような感覚があった。
また、マヌエル・プイグの『天使の恥部』も繰り返し読んだ。これも時制が複雑に構成された作品で、現在、過去、未来を生きる三人の女性の物語が同時並行で展開されていく。共通するのはどこかで意思を奪われていること、「価値のある男性」を求めているが現実の男性は常に支配的であること。やがて物語は一つに融け合わされていく。
今読み返してみると、アレナスとプイグは深く共通する作家だった。両者ともゲイ男性として迫害ないしは差別を受けてきたこと、暴力的なマチスモの吹き荒れる中、亡命を余儀なくされたこと。ヘテロのシス男性でありながら男性文化の中で苦しさを抱えていた私は、アレナスとプイグの小説にそこから解放される可能性を読んでいたのだろう。当時はまったく意識しなかったが、その後に自分が執拗に「男性はいかに男性であることを降りられるか」をテーマに小説を書き続けたことを考えると、小説の方法まで含めて、この2冊によって自分の文学を形成していたのだとわかる。それはまさに自分が生き延びることを賭けての冒険だった。
その後、私が文藝賞をいただいた最初の小説『最後の吐息』を本にしてもらえることになったとき、装丁を坂川栄治さんにお願いしたのは、文学の冒険に私も加わるという決意の表明であった。
1965年アメリカ・ロサンゼルス生まれ。1997年『最後の吐息』で文藝賞、2000年『目覚めよと人魚は歌う』で三島由紀夫賞、2003年『ファンタジスタ』で野間文芸新人賞、2011年『俺俺』で大江健三郎賞、2015年『夜は終わらない』で読売文学賞、2018年『焔』で谷崎潤一郎賞を受賞。2022年から、『ひとでなし』を新聞小説として連載中。