二宮敦人
1985年東京都生まれ。作家。 『最後の医者は桜を見上げて君を想う』『最後の秘境 東京藝大: 天才たちのカオスな日常』等、幅広いジャンルでベストセラーを発表。著書に『!』『世にも美しき数学者たちの日常』『紳士と淑女のコロシアム「競技ダンス」へようこそ』『ある殺人鬼の独白』『さよなら、転生物語』『ぼくらは人間修行中 はんぶん人間、はんぶんおさる。』等がある。
料理人
田村浩二(たむら こうじ)
Mr. CHEESECAKE シェフ
「僕、めっちゃ水飲むんです。不思議だったんですよ、どうしてこんなに飲むんだろうって。最近、理由がわかりました」
テーブルの向こうで、田村浩二さんが透明なペットボトルを握りしめている。
「どうも、定期的に口の中をリセットしたいみたいで。コーヒーとか飲むと、しばらく口に味や香りが残りますよね。鼻もちょっと麻痺して。それが嫌なんです」
僕は首をひねる。
言われてみればそうかもしれないが、さほど気にしたことはなかった。
「あ、歯磨き粉もそう。ミントの刺激が強いものなんかは、気持ち悪くなってしまって。だから僕、オーガニックに変えました。なかなか良いですよ」
「やっぱり、それはお仕事上の‥‥‥」
「はい。いつでも味を正確に感じられるようにしておきたいんです。なにせ、ここが商売道具ですからね」
鼻の下から顎あたりまで、指で示してみせた田村さんの仕事は、料理人。ミシュラン獲得フレンチレストランでの料理長(シェフ)経験もあり、人気のチーズケーキブランド「Mr. CHEESECAKE」を自ら手がけ、経営する事業家としての一面も併せ持つ。
そんな田村さんに、今日はぜひ「味覚」と、そこから広がる「おいしさ」の世界を教えてもらおうというわけである。
「かねがね疑問だったことを聞いてもいいですか」
「どうぞどうぞ、何でも」
にこやかに笑う田村さんは長髪を後ろで束ねた、働き盛りの37歳。高校生までは「野球しかしていなかった」そうで、がっしりした体格で声の通りもよく、爽やかな印象だ。
「一流レストランのシェフって何やら凄い料理を作るじゃないですか。なんとかとなんとかのなんとか風とか。びっくりするようなものを組み合わせて」
「はい、はい」
「田村さんも栗と焙煎紅茶とスパイスのチーズケーキとか、独特なものを作られていますよね。一体、どのように発想するんですか」
「そうですね、基本的には自分の食べたものから」
すらすらと田村さんは話し出した。
「おいしかった記憶って、僕はほぼ忘れないんですよ。料理始めたばかりの頃は、働いている店のシェフの料理とか、色んなお店で食べたものを覚えておいて、ああいう味は自分だったらどうやって作ろう、とか考えてましたね」
「今はどんなふうにやっているんですか?」
「まずは食材ありきなので。たとえば今回は栗を使う、と決めるじゃないですか。そうしたら色んな栗をとにかく、手に入るだけ取り寄せます。日本の栗なのか、フランスの栗なのか、どんな産地でどのように作られた栗なのか‥‥‥それぞれ味が違ってきますので。で、食べてみると浮かんでくるんですよ。赤砂糖と合わせたら良さそうだとか、昔あそこで食べたあのスパイスを使うと栗の良さを引き出せそうだとか。そうしたら頭の中で細かくシミュレーションをしてみて。行けそうだ、となったところで試作に入ります。だいたい3回くらいで完成まで行けるかな。微調整が必要なものだと、もっと増えますが‥‥‥」
「おいしかった料理や、食材の味の記憶があるから、そういう閃きが湧く、と。でも、よくそこまで克明に覚えていられますね」
「食べるということに全神経を集中するようにしています」
「というと?」
僕が首を傾(かし)げると、田村さんはお皿に鼻を近づけるような仕草をしてみせた。
「レストランでお皿が出てきたら、まず、嗅ぐ。そして香りや味はもちろん、温度、濃度、粘度、舌触り、重さ、色、素材の割合‥‥‥そういったものを全部覚えるんです。あと、口の中ってずっと同じではありませんよね。口に入れた瞬間。舌に載せたとき。歯にどんなものがどんな順番でどんなふうに当たって、どうほぐれていくか。それに伴って香りも味わいも変わっていく。そして喉ごしがあって、余韻が残る。そういう時間の流れとセットにした情報も頭に入れます」
「かなり細かくデータを取るんですね」
「よく味覚は五味、と言われますよね。僕の感じ方は少し違っていて、甘味、塩味、酸味、苦味、これに辛味と脂肪味をくわえて六味、だと思っています」
あれ? いわゆる五味に辛味と脂肪味が加わって、うま味が消えてしまっている。
「うま味はまた別軸なんです。六味が平面的なものだとしたら、うま味はそこに奥行きを与える『深さ』という感じ。これはグルタミン酸のうま味、イノシン酸のうま味‥‥‥とさらに細かく分けられます。それから香り、風味と呼ばれるものがあって、これは上に抜けていく『高さ』のようなイメージです。これもまた、フルーティー、シトラス、ウッディー、スパイシー、ロースト‥‥‥と細分化できます。平面、深さ、高さ、それぞれが時間経過でどうなっていくか。立体を分析しながら食べるんです」
「なるほど‥‥‥」
非常に科学的な感じがする。が、思いっきり主観的でもある。
田村さんは腕組みをして息を吐いた。
「これは、あくまで僕のやり方です。ただ、自分なりにそういったことが一つ一つ言語化できていないと、おいしさを再現できないんですよ」
そこから早口でポンポン、とリズム良く続けていく。
「食材をどれくらいのサイズでカットするか、どれくらいの火入れでどのくらいの柔らかさにするか。肉なんかも、1℃の違いでかなり違ってきますからね。口の中に入るものの順番、形、食感、温度‥‥‥どのタイミングでどの食材から、どの香りが出て、どう移り変わるか‥‥‥そういったものを全部組み立てて、お皿に落とし込んで。ようやくお客様の口の中で、意図したものに近い状態が起こせるんです」
「自分の体験から、お客さんの体験へと繋げていくんですね」
「ちょっと前は、うちのチーズケーキ用にオリジナルスプーンを作りました」
「えっ、どうして?」
田村さんのオリジナルスプーンは、灰色の薄い樹脂製で、小ぶりなヘラのような形をしている。
「これも自分の体験からです。たまたま家で、木の匙でケーキを食べたことがあって。表面がざらざらで、木の香りがして‥‥‥正直、邪魔だと感じちゃったんですよ。考えてみれば金属のスプーンなんかも、温度の伝わり方が違う。ケーキの温度が口に伝わる前に、スプーンの冷たさが来てしまう。あれ、スプーンって意外と味に影響を与えているのかな、と。じゃあスプーンの存在感をうまく消したら、気づいたら口にケーキが入ってる、そんな体験ができるんじゃないかと思って、いろいろと探し始めたんです」
職人や樹脂会社と相談しながら、トライタンという新しい樹脂素材を使って、先端の厚みが0.3ミリというスプーンを開発した。
「金属で作ったら、刃物になってしまう薄さです。これならケーキが切りやすく、すくい取りやすく、純粋なケーキの味が楽しめます」
満足げに頷く田村さん。
味のプロの凄みは、味という現象についてとことん考え抜く姿勢にあるようだ。
「僕、外食はそれほど好きじゃないんです。放っとくといつまでも行かないので、あえて予定を入れたりはしますけどね。家のご飯は奥さんに作って貰っていて。あ、妻は料理人ではないので、ごく普通のものですよ」
「そうなんですか」
意外だった。てっきり忙しい中で時間を捻出しては、美食レストランを食べ歩いたり、珍しい食材を求めて世界中駆け回ったりしているのかと思っていた。コンビニで食事を済ます日もあるという。
「そういったものを食べるだけで、独創的なアイデアへと繋がっていくものでしょうか」
「1日に3食食べますよね。1年なら1000食以上。その全てにしっかり気を向けるようにすれば大丈夫。たくさんの引き出しができます」
「1日に3食と言っても、僕なんか似たようなものばかり食べてますが‥‥‥」
いえ、気づけるかどうかです。田村さんはそう言い切る。
「仮にずっと同じメニューだとしても、毎回同じ味ってことはありません。たとえば味噌汁にサツマイモを入れるとして、火入れが固めだと甘さがあまり出ない。ちゃんと火を入れると甘味が出て、味噌汁全体の味が変わる。そういった違いが必ずあるはず。気づかない人は気づかないけれど、意識を向けるとわかります。今日は煮物の人参が少し柔らかい、どうして柔らかいのか? 茹でたからなのか、蒸したからなのか、食材の産地や状態によるものか‥‥‥調理工程をイメージして、一皿ごとに自分のアンサーを出す。すると、必ず発見がありますよ」
僕は味噌汁にサツマイモが入っているかいないか、程度しか考えていない気がする。おいしさの解像度は、僕がアナログテレビなら田村さんは4Kテレビといったところか。
「創作した料理の試食でも、そういうふうに食べるんですか」
「試食はもっと厳しくやりますね。たとえばなるべくお腹いっぱいのときに食べるとか。満腹でもおいしく感じられるようなものでないと、自信を持ってお客様に出せないので」
確かに、空腹時においしくても、あまり当てにならなそうだ。
「それから、必ずお客様が食べるのと同量を食べます。チーズケーキなら一本作ってワンカット、パスタなら一皿というように。一口だけ食べても八割くらいのことはわかるんですが、食べ続けないと見えないことってあるんです。一口ならおいしくても、一皿になると食べ飽きるなあ、とか」
「ああ、ありますね」
「あとは、なるべく感情とか情緒を排除して食べたいです。結婚記念日に大好きな奥さんと、素敵なロケーションのレストランでご飯を食べたら、大抵のものはおいしいはずなんですよ。お客様がポジティブな影響を受けておいしく感じるというのは、基本的にはいいことなんですけれど、食のプロとしてはそれに頼ってはいけない」
「確かに」
「僕はシチュエーションは別にして、おいしさを判断するようにしています。有名なお店だからとか、あの人が作ったからとか、そういった情報は遮断して食べ物と自分、一対一で向き合う‥‥‥」
田村さんは真剣な顔を少しだけ崩し、歯を見せた。
「だから、ある意味おいしいとかおいしくないとかで、ものを食べなくなりました。いつもデータ収集のような」
感嘆のため息の後に、僕は思わず呟いた。
「何だか、食べるのしんどくなりません?」
「いやいや、そんなことないですって」
笑いつつも、田村さんはちょっとだけ考え込み、椅子に座り直す。
「まあ、確かにうわーって感動するような経験は減ってきますね。あんまりいろいろなもの食べない方がいいですよ、不幸の始まりですから」
冗談っぽく言ってから、ふと繊細な表情を見せる。
「食べものって大抵はおいしい。そう、おいしいんですよ、基本的には。ただ、もっとおいしくできる、というのがわかると楽しいんです。うまいものが一つ作れるようになる、これがとても嬉しい。世の中のものが全部、手のくわえようがないほど完璧においしかったら‥‥‥たぶん絶望して料理やめちゃうと思います。僕はそっちの方が辛いなあ」
しみじみと、田村さんは頷いた。
1985年東京都生まれ。作家。 『最後の医者は桜を見上げて君を想う』『最後の秘境 東京藝大: 天才たちのカオスな日常』等、幅広いジャンルでベストセラーを発表。著書に『!』『世にも美しき数学者たちの日常』『紳士と淑女のコロシアム「競技ダンス」へようこそ』『ある殺人鬼の独白』『さよなら、転生物語』『ぼくらは人間修行中 はんぶん人間、はんぶんおさる。』等がある。