二宮敦人
1985年東京都生まれ。作家。 『最後の医者は桜を見上げて君を想う』『最後の秘境 東京藝大: 天才たちのカオスな日常』等、幅広いジャンルでベストセラーを発表。著書に『!』『世にも美しき数学者たちの日常』『紳士と淑女のコロシアム「競技ダンス」へようこそ』『ある殺人鬼の独白』『さよなら、転生物語』『ぼくらは人間修行中 はんぶん人間、はんぶんおさる。』等がある。
料理人
田村浩二(たむら こうじ)
Mr. CHEESECAKE シェフ
田村さんも最初から、分析するような食べ方をしていたわけではないという。
「若い頃は、何でもおいしく感じました。経験がないから。だんだんと甘味と酸味のバランスはこれくらいが好きだとか、ブロッコリーなら焼くのも茹でるのもいいけど揚げたのが好きだなとか、自分の嗜好が明確になって、その分研ぎ澄まされていくんです。日々口にするもの全てに意識を向けようとし始めたのは、24、5歳頃でしたね」
「何かきっかけでもあったんですか?」
「あ、暇だったんです」
高校卒業後、調理師専門学校を経て、自分で見つけた修業先で働き始めた田村さん。やがてキッチンにも立てるようになると、次の店へと移った。
「前の店は、本当に忙しくて。27時間労働した日もあったくらい。次に入った店は新規オープンで、お客様は昼も夜も数組だけ、間に休憩3時間‥‥‥といった感じでかなり余裕があったんですよ。すごいギャップで、このままじゃ取り残されてしまう気がして」
何かしなければ、と田村さんは思ったそうだ。
「まかない作りでいろんなメニューに挑戦してみたり。卵黄を使った手打ちパスタの店なので、卵白がめちゃくちゃ余るんですね、それを使ってお菓子作りの練習したり。その一環として、口に入るものに意識を向けて、しっかり分析し始めたんです。以来、もう10年以上続けています」
当時はそれこそ、味の全てを記憶しようとしていたという。
「今はもう慣れましたし、反射的に勘所だけを拾い上げるという感じですね。たまに何も感じたくないときは、頭のスイッチをオフにして、無心でおにぎり齧(かじ)ったりもしますけど」
香り、風味についても意識が変わった経験があると、田村さんは教えてくれた。
「縁あって移った3店目で、シェフに言われたんですよ。フランス料理をやるならワインがわかった方がいいよと。僕、お酒があまり飲めなかったんです。せめて香りだけでも勉強したらどう、とソムリエ試験の対策で使うようなトレーニングキットを渡されて」
ルネデュヴァン ー 直訳で「ワインの鼻」、というフランス製のキットである。ボードゲームくらいの大きさの箱を開けると、アロマが入った小瓶がずらりと並んでいる。なんとその数、54種類。それぞれを嗅ぎ分け、何の香りなのか正解を探すのだ。
「この中から20種類ランダムでピックする。そのうち18種類を当てたら、どこでも好きなレストランに連れて行ってあげると言うんですよ。じゃあ、と1ヶ月何となくやってみたら、これが7つくらいしか当たらない。さすがに悔しくて。もう1ヶ月やらせてほしいとお願いして、今度は真剣にやりました、平均睡眠時間を3時間くらいにして。それでも17問止まりだったんですけど」
「かなり難しいんですね」
「ただ、それから自分の嗅覚がとても良くなったんです。鍛えれば伸びるものなんだって知りましたね。感じ方が全く違う。それまでは茹でたブロッコリーの香り、とだけ思っていたものが、ブロッコリーの中に実は柑橘っぽい香りもあるとか、ハーブっぽさがあるとか、細かく嗅ぎ分けられた」
香りへの興味が増した田村さんは、料理修業の傍ら南フランスのグラースという香水産業で有名な街を訪れるなど、インプットを重ねた。嗅覚の成長ぶりは、フランスから帰国してしばらく、日本の電車が臭くて乗れないほどだったそう。
「本も参考になりました」
『フレーバー・クリエーション』という本を持ってきて、見せてくれた。単行本サイズの翻訳本で、定価のところには本体1万3000円、とある。
「調香師向けの本なんですが。この香りはこういう化学物質によるもので、こういうものに含まれている‥‥‥といったことが書かれています」
「どう料理に使うんですか?」
「食材の組み合わせ(ペアリング)に裏付けを取ったり、新しい可能性を探すのに役立つんですよ」
ぱらぱらとページをめくりながら、田村さんは続ける。
「ラズベリーとバルサミコ酢とバニラって同じ香気成分が入ってるんだ、だから合うんだな、とか。本を読む限りセロリとメープルシロップと牛肉には共通の要素があるから、今度合わせてみようとか」
「なるほど! 料理を発想する際に、具体的な手がかりになるんですね」
「たとえば薔薇(バラ)を使うとして。薔薇の香りはいろいろな要素が組み合わさってできています。柑橘、スパイス、お茶、ハーブ、木の香り‥‥‥どこをどう活かすか。柑橘っぽいところを活かすなら、オレンジと合わせてさっぱりした味に。スパイスの甘い感じを活かすなら、クローブとかバニラと合わせて甘く、というふうに味が決まってくる」
「そういうのが食材の相性、ですか。相性が悪いものを掛け合わせてはいけないんですか?」
「いけないわけではありませんが、人間は酸っぱい香りを嗅ぐと、酸っぱい味を感じやすくなるんですよ。逆に酸っぱい香りのレモンを甘く炊いたりすると、酸っぱさも甘味もぼやけて、両方感じにくくなるんです。脳がバグるというか、不協和音になりやすい」
ほー、と思わず呟いた。そうやって香りと味を絞り込んでいくのか。
「実は食感や温度なんかも、ほぼ同時に決まってきます。100パーセントのオレンジジュースを飲むのと、それを寒天で固めたものを食べるのと、乾燥させたパウダーを舐めるのとでは香りの立ち方が違う。そして冷たいと酸味を感じやすくなるし、温かいと甘味を感じやすくなる。溶けたアイスクリームって甘いでしょ?」
僕は目を閉じて想像してみた。ここまで誘導してもらえば、僕にもレシピが作れそうな気がしてきた。
「じゃあ‥‥‥薔薇のスパイス香を活かすなら、組み合わせはバニラだと仰ってましたね。で、味は甘く食感は柔らかめ、温度は冷たすぎず‥‥‥となれば浮かんできそうです。薔薇のジャムとか、ババロアとか」
田村さんは頷く。
「食べている間の変化なども考えると、大きさとか形とか、盛り付け方も決まりますよ。お皿のどのあたりに置くかで、どういう順番、頻度、速度で口に運ぶかをある程度コントロールできる。3回に1回くらいレモンの皮が口に入って、一気にハーブの香りが引き立てられて味の幅が広がるとか、そういう設計も考えられますね」
まるで複雑な連立方程式を解くような作業である。シェフの頭の中を、ほんの少しだが覗いた気がした。
「うまくいかないことはありますか? これとこれは合うと思ったのに、作ってみたらいまいちとか」
「ありますよ。基本的には自分の直感を信じて、まだ何かが足りないと考えます。AとBとを繋ぐ、Cってものがあるんじゃないかとか。でも、どうしてもだめだったら前提が間違っていたかも、と見切りをつけるかな。昔諦めた組み合わせが、新しい食材や調理技術と出会って、ようやく形になるなんてこともあります」
僕は背もたれに寄りかかり、思わず腕組みした。
「いやー、大変な仕事ですねえ」
しかし田村さんは、けろっとしている。
「楽しいですけどね。いや、でもどうかな。僕、過去の苦労をすぐ忘れちゃうんですよ。今はある程度自分の味が確立できて、周りにも評価してもらえているから楽しいのかな。昔はそりゃあ大変でしたよ」
「修業時代のことですか」
「はい。平日は本当に朝から晩まで働いて、休日は寝ているだけ。料理漬けの人生を送ってました。一度、時給を計算してみたことがあるんですよ。なんと、たったの330円で‥‥‥別の道に行こうかと真剣に悩みましたね。ご飯も食べられない日もあった」
「仕事が忙しいからですか」
「それもあるし、当時は何を作っても自信がありませんからね。精一杯考えた料理も、他のシェフのオマージュみたいなものだと、分かる人には分かってしまう。どんなリアクションをされるか、緊張して胃が痛くて‥‥‥自分は何も喉を通らないのに、誰かのための食べ物をずっと作ってた。それでも料理を作るのが嫌、までは行きませんでしたが。これしか自分に道はない、と思っていましたし」
田村さんが料理人を志したのは、高校生のときだ。
「ずっと野球をしてきて、プロ野球選手を目指して大学のセレクションを受けました。でも、全滅だった。それも自分ではうまくできた、いい手応えだと思ったのにだめだったんです」
自分は野球ではやっていけない。少なくとも、トップを目指すような力はない。そう痛感し、夢が潰(つい)えて途方に暮れていた時のこと。田村さんは友達の誕生日にケーキを作った。
「ほんの思いつきからで。母がいつも誕生日にチーズケーキを焼いてくれたので、僕にもできるかなと思ったんですよ。でも、思春期だから親に聞いたりはしたくない。ネットで調べて、レシピを印刷して、スーパーに材料買いに行って‥‥‥坊主頭の高校生が。包丁握ったのも初めてでした」
最初に作ったものは渡さず、まずは自分で食べてみた。次に作ったものを仲の良い友達に試食してもらい、3回目を本番として持って行ったそうだ。
「最初からしっかり試食していたんですね」
「その頃から、割とこだわりはあったみたいです。そうしたら、友達も、クラスのみんなも凄く喜んでくれて。おいしさで人を笑顔にするのっていいな、と思ったんです。すぐに、専門学校を調べはじめました」
かつて野球で目指したように、この世界でもトップになりたい。そんな意気込みで調理師専門学校に学び、卒業してからは3店のレストランを渡り歩いた後に渡仏し、世界のレストランランキング1位にも輝いた店で修業。帰国後はミシュラン獲得店のシェフとなり、世界的に権威ある賞も受賞した。
だが、少しずつトップが見えてきた頃、田村さんはその価値に疑問を持つようになってしまった。
「注目されると、同業者や専門家の方がお店に来るようになるんです。品定めされているようで、違和感がありました。それから母をレストランに招待して料理を振る舞ったときに、『何だかよくわからなかった』と言われてしまったこともあって。このままでいいのだろうか、と悩み始めたんです」
田村さんはいったん原点に立ち返ることにした。そうして作ったのが、友達が笑顔になってくれたチーズケーキ。SNSがきっかけとなり購入希望者が相次いだことから通販を始め、その規模は拡大していった。そうして今、田村さんはレストランの料理人をいったんお休みし、チーズケーキを中心に「自分が本当においしいと思うもの」を作り、世の中に届ける事業に取り組んでいる。
「うまいものを作って人をハッピーにする。結局、僕が世の中に貢献できるとしたら、それしかないと思ってるんです」
1985年東京都生まれ。作家。 『最後の医者は桜を見上げて君を想う』『最後の秘境 東京藝大: 天才たちのカオスな日常』等、幅広いジャンルでベストセラーを発表。著書に『!』『世にも美しき数学者たちの日常』『紳士と淑女のコロシアム「競技ダンス」へようこそ』『ある殺人鬼の独白』『さよなら、転生物語』『ぼくらは人間修行中 はんぶん人間、はんぶんおさる。』等がある。